2015年10月25日日曜日

岡山で思ったこと



2015.10.16-10.18の三日間で感じたことを、帰りのバス内で、感じたままに。



・18:03

さよならについて想いを馳せている。
いままでの私だったら、きっと会いたい人に会いに行っていたけれど。
疲れた顔を見せたくないなー、なんて、初めて思った。
会いたい動機がきっと、依存心からくるものだったから。

ある人のこと。
会いたすぎて期待しすぎて、空回りしたなあ、
話したくないときは話さなくていいんだよ、ということを、もっと身を以てわかりたい。
自分で色々とハードルを上げすぎた。前日までに感じた違和感、当日に感じた気持ちに素直になってみてもよかった。
でも終わったことだし、総じて楽しかったのでオッケー。

人を好きになること。
人を好きになるという行為は私にとっての表現だと思っているから、一般的な倫理観に囚われない。
男女関係なく、どの人のことも好きだし、どの人のことも大切に想っている、という気持ちに偽りはない。
それぞれ皆違うから好きだし、当たり前だけど、それぞれの人と過ごす時間は、それぞれの人としか過ごせない。
(一人一人に「あなただけが好き」と約束しているなら話は別だけど)

私の場合、大体において、人を恋しく思うときはその裏側に利己的な欲求が潜んでいることが多いので、一旦止まって心のなかを覗いてみる、という行動を取り入れてみることは価値があるように思う。
一旦止まるということは、やりたいことをやらない、と、イコールではない。
勢いを殺す、剣道で言う、去なす(いなす)という感覚に似ている。

『やったほうがいいと思うこと』をやることと、『やりたいこと』をやることを天秤にかけると、やりたいことをやったほうがいいと思われがちだけれど、それも時と場合によるなあと思った。
『やりたいこと』の裏側には、感情が隠れている。
そのときの自分が表現したいものが隠れている。
でも、そのもっともっと根底に潜んでいるものはなんだろうか、と冷静に見つめて、把握してジャッジすることも必要。
『やったほうがいいと思うこと』の裏側にも、『やりたいこと』より大切なものが隠れている場合がある。
その時々で大切にするべきものが違う、違って当たり前なのだと思った。

『やりたいこと』をやることで損なわれるものもあるし、やりたいことが必ずしも、自分がしあわせにしたいひとをしあわせに出来るとは限らないときもある。
綺麗な別れが、またその人に会いたいとも思わせるし、自分もそう思っていられる場合がある。
そういう風に思えたことが良かったと思う。

笑顔で別れる、ということ。
本当はすごく大切なのかもしれない。
むしろいつでも、一緒に過ごした中で一番の笑顔で別れたい。
握手も抱擁も必要ない。それを知ったのも経験。
すごくすごく、大切な経験。

旅に出て出会えた、また会いたいと思った人のこと。
思わぬところで物事は繋がって導かれていくから、自分をオープンにしておくという感覚はすごく大切。
(オープンというものがどういう状態かは、まだ自分の中で感覚的すぎて、具体的に上手く説明出来ない)

好きじゃない場所や人でも、自分の状態次第で良くも悪くも転ぶし、退屈と感じ始めた次の瞬間、思わぬきっかけで人をおもしろいと感じたりするので、少しだけ、その場に留まってみる、というのも必要な視点なのかと思った。
どうしても嫌なら無理はしなくていいと思うけれど、どうしても、に至るまでのギリギリを知っておくことや、キャパを増やすということは、決して自分にマイナスにはならないのではないのかなと思う。

逆に今日みたいに、期待しすぎると失敗する時もある。
期待をするということは、自分自身が自然な状態ではない、ということなのかな?
周りに何かを求めているという状態なんだろうか?
当たり前のことだけれど、自分にとって心地の良い自分でないときに、無理に何かをしても後悔するだけだと、身を以て感じた。
なにかしら、周りに気を使いすぎたり、期待や妄想をすぐにしてしまう人間なので、そのあたりはもっと経験して、自分に合った方法を探していきたい。

行動の『選択』の幅を広げるということ。
自分が、自分で、その場の自分に合った選択が出来るようになりたい。
思考や視点のバリエーションを増やせたら、次は、言葉と行動のバリエーションを増やす。
「誰かにこう思われたい」という理由が大元になければOK。
そういうスキルを身につけることが、大切な人にスムーズに気持ちを伝えられることに繋がるのかもしれない。

そのスキルが未熟な故に、必要ない軋轢が生まれたり、修復出来ない傷を付けてしまったり、
結果的に、憎み合って、別れてしまうことは、本当に哀しいことだと思う。

座談会のこと。
初めて参加して、楽しかったけれど、あまり得意な場所ではないかもしれない、ということがわかった。
それがわかっただけでも、行って良かったと思う。
違和感の正体、まだもうちょっと考察や分析が必要。

決して、誰かや何かを批判したり、それによって自分を正当化したり慰めたい訳ではない。
自分にはちょっと合わなかっただけだし、そのことを誰かに理解してもらいたいとも思わない。
みなさん本当に素敵だった。私自身がまだまだ無知で未熟なだけ。
思い返せば旅も三日目、いろんな部分に疲れも見えていたのかな、とも思う。
でも、“だから『悪』”ではない。
いまは自分の心の動きに興味があって、文章として遺せるほどはっきりとした感覚として感じたいから、考察を続けようと思う。

コミュニケーションにも嗜好があるのだと知ったこと。
静かな場所で落ち着いて、個人的に、一人対一人で話すほうが好きだということ。
同じような考え方をするからといって、皆が皆、仲良くなれるわけではないということ。
また、もしかしたら、仲良くなる必要も特にないのかもしれない、ということ。

考え方やバックボーンが違っても、高校が同じだったり共通の知り合いがいることがきっかけで、仲良くなれる人もいるということ。
私の場合、違った考え方をしているひとでも、一人対一人や少人数なら、割と素敵な時間をシェアできたり、面白がれる確率が高いということ。
垣間見える同じ感性と出会う瞬間が楽しかった。

仲良くなるのに、共通の話題は少なからず大きなウエイトを占めるということ。
子供が好きだったりあるアーティストが好きだったり、音楽や映画や本の趣味が似ていたり、同じ土地に行ったことがあったり、生まれた場所が近くだったり、無限にあるけれど、そういったこと。
そういう話をすこし軽視していたかもしれない。媚びのように思っていた部分がある。
(自分の知識について、地に足を付けることは今からでも可能かしら。)

興味のあること、そのとき感じたこと。
こんなにもはっきり感じているのに、言葉で伝えられないもどかしさ。
それがあるから、音楽をしたり絵を描いたり物を作ったり、言葉以外でも人は表現するのだと思う。

思ったことを自由に表現しよう、と、さらに強く思った。
即興演奏において、より良い演奏を出来るようになりたい、と思うことに近い感覚。


人は流れて、流れていくよ、ということ。
私は今、近くの人と、深く交わりたい時期だということ。

近くというのは、大阪東京とかいうことではなくて、心の近さ、興味の深さ、のようなものです。
逆に思えば、深く交わりたい人たちは、大体みんな、それぞれの場所にいる。
だから丁度いいのかもしれない。
わたしは、いまここには、ひとりで良い。ひとりが良い。

さて、依存心からくる行動には、他にどんなものがあるのかしらね。
自分の心の解体ショーしてるみたいだ。たのしい。


大阪に戻って、ものすごく、笑顔だということ。
うずうずしている自分がいるということ。
うわー、生きてる!って、思えたこと。楽しかった、って、思えたこと。

いまの自分にとって、必要な旅だった証拠だと思っています。
出会えた、関わってくださった全ての皆様、
本当にありがとうございます。




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